maingazou

 Diary

2023年5月14日(日)

最後の更新から、7か月も経ってしまった。この7ヶ月の間、ずいぶんといろんなことがあり、人生で初めてのいくつもの出来事や、これまでしたことのない普通の(?)努力だとか、そういうことを経験していました。

その間に年も越して、今また新たな環境が与えられ、そして今月には、またひとつ、年齢を重ねる。振り返ってみると、目まぐるしいような日々だけれど、内側は穏やかにしんとしているような。望む人生を生きるためには、強化しなくてはいけないと感じている部分が自分の中にあって、そこを今着々と鍛えているような日々。

このサイトもしばらく離れて客観的に眺めてみると、案外面白いなと思ったり…、で、なんとなくスタンスを変えてみようと、タイトルも変更。HTMLで作っているということもあり、アナログ感漂う”ノート”にしていこうと思っています。もっと雑多にいろんなことを書いていけたらいいかなと。無目的的に書いていく中で、きっと何かが共鳴していくと思うから。





2022年10月3日(月)

ほとんどの肉体的病気の原因は、過度のストレス。ネガティブな感情からくる、不自然な生活。今生きていること、息を吸えていることに感謝の気持ちを持つことができれば、何かを否定的に捉えることはできなくなる。不安や傲慢さから、中途半端に強がって生きるより、とことん弱さを経験してみる方がいいかもしれない。



2022年9月30日(金)

誰かにとってそうであること、誰かの目にはそう映ることが、全ての人に当てはまるわけではない。

妄想に負けないで歩いていきましょう。なんであれ、今ここにないことは全て妄想。過去の誰かの無責任な言動によって、自分の感情を上げ下げされるなんて、考えてみなくても、とんでもなくバカらしいこと。

もし自分の望む人生を創造したいなら、わかりやすく嫌な気分になったり、良い気分にさせられたりするものから遠ざかること。自分自身に対して直接向けられた言動以外に対しては、いちいち反応しないこと。



2022年9月27日(火)

面白いなと思う。人生というものが。この肉体は一度しか使えなくて、この人生って、私にしか歩めない。とはいえ、だから、どうすれば?みたいな時期もあったけれど、それって本当に、それ以上でも以下でもなく、そういうこと。だから、何があっても淡々と、望む現実を選びながら歩んでいこうと思う。エゴの望みだって、原動力になる。大丈夫、それはちゃんと叶わないから。ちゃんと、本当の望みが叶うようになっている。そのプロセスを楽しむだけ。



2022年9月25日(日)

さて。お彼岸も終盤。すっかり秋の空気。朝のウォーキングでは、まだセミが鳴いていて、何だかやっぱり夏というのは名残惜しいものだなあと思う。これからどんなことがあろうと、大切なものを大切に、自分の足でこの人生を歩き切りたいと、思う。

ウォーキング中にふと思い出したこと。そういえば以前は、世の中の様々な組織内で行われている諸々のことに対しての、苦手意識が異様に強かったなということ。回りくどかったり、複雑だったり、意味のないことばかりに見えてしまっていたから。“きっと何か、私にはわからない、別世界の仕組みのようなものがあるのかもしれない”というような漠然としたよくわからない感を抱いていたように思う。

それを拗らせて、批判的な反抗的な態度となって現れていたことも、あったかもしれない。“そんなに意味のないことをするのだから、何かウラがあるに違いない、じゃなきゃ、そんな狂ったことやるわけない”的な。(もしかしたら、そういう風に違和感を態度に出して生きていく層は、常に一定数必要なのかもしれないとも思う。)

ある時期から、少し冷静に組織を観察する余裕が出てきて、その中で自分が人間としてどんな振る舞いをするのかということがわかってくると、なんのことはない、これまで不可解だった組織内の諸々が、「ただそうであるもの」という風に感じられるようになってきた。

つまり、何か特別なことがあるわけではなく、難しい理屈があるわけでもなく、人が作り出した諸々の困りごとや何かに、対症療法的に対処していれば、必然的にそうなるということ。一見難しそうに見えることも、単に、誰かの思惑に過ぎなかったり、人の弱さゆえに見て見ぬふりをされ放置され、複雑さを増しただけだったり。

頭で考えると、なぜそんなバカなことを…と思うようなことでも、人間ってやってしまったりもするし、思わぬところで弱さが露呈することもある。そういうことがあっても大丈夫なように、セーフティネットが張られているのが、社会だったり組織だったりするのだなということ。

そして、それがいつしか、人によっては窮屈な鳥かごのように感じられたり、ルールに縛られていると感じられたりするようになって、得体のしれない不自由さや重たさを感じるようになるのではないかと。よくわからなくなって、「みんな」「世間」というあってないようなものが、力を持ってしまうのだなと。

私自身、これからまた新たな環境に身を置くことになるけれど、そこで自分を試してみたいと思っている。以前はよくわからなくて気後れしてできなかったこと、嫌悪感から近づこうとしなかったこと、これからは自分なりの距離感を持って関わることができるんじゃないかと思っている。自分の望みを叶えるために必要な、新たなステージが始まるのだなと。

今こうして、言葉にして残しておこうと思う。何年か後に、例え迷子になってしまっても、戻るのはこの地点まででいい。そういう風にしておこう。



2022年9月22日(木)

自分が、美しいと感じるもの。それを素直に美しいと思えることって、本当に幸せなこと。

同じように、自分が美味しいと感じるもの、いいと思う音楽、好きな香り、そういうものを、自分自身に与えられているこの肉体を通して、純粋に感じながら生きていけたら、外側の何にも左右されずにこの人生を歩いていける。

好きなものを、埋もれさせてしまわないように生活する。余計なものを溜め込んで、大切なものが見えなくなってしまうような生活はしない。気づいた時にいつでもリセットできる方法を持っておく。

常に柔軟に、柳のようにしなやかに強く。



2022年9月21日(水)

これまでにはない経験。初めて“体感”した自分という人間の弱さ。それは、なんとなく「弱い人間」という意味ではなく。年齢的なこともあるのか、人生を無駄にしている暇は本当にない、という感覚。

気づいてはいたけれど、これまではどこか余裕があった。どんな経験も例えしんどい経験でも、それを客観的に眺めている自分がいて、必要な経験だからと耐えることもできた。どうせやるなら、やったことのないこと、自分の範疇外のことも経験しておきたいという思いが強かった。それが自分の生き方、人生なのだと。

今年の誕生日を迎える前に、これまでの人生を詳細に振り返ってみるということをやってみた。そうしたら、「もう十分かな」という気持ちが湧いてきた。かつての渇望は消えていて、経験を貪るような欲求も、ほとんどなくなっていることに気づく。

明らかに、何かが変化していて、これから経験していくことは、これまでとは質の異なるものである予感がしている。広く浅くの経験から、ある程度焦点を絞った経験に移行していくというような。

自分自身に備わった本質的なものを、ちゃんと使って生きていく覚悟のようなものを感じているところ。懐かしくて新鮮な、心地よい感覚に包まれつつ、静かに歩き出します。



2022年9月19日(月・祝)

改めて、何かを批判するということは、“ラク”な方法なのだなと思う。自分の立場を強くしたり、仲間を得ようとする時に、何かを批判したり攻撃したりというのはよく使われる手法。それを多分無意識にやってしまう。怒りはパワー。何かに怒ることで、生きる力は湧いてきたりする。だからそれが悪いとは言えないし、それが必要な時もある。

変えた先に何があるのか?それが見えているのか…。一歩引いて、観察することをしていこうと、改めて思っている次第。「ふつうに、普通を変えていく。」それをモットーとして生きていくということ。なんというか、やっぱり、このままで良いとは言い難い。だから、より良くしていったり、少しでもハッピーの量は増えていく方がいい。そのためにできることって、一人一人の普通が、ふつうに変化していくこと。

今の時代って、歴史上のどの時代よりも、恵まれていてありがたい。“昔はよかった”という視点から現実を批判するのではなくて、「よりよく進化するのが当たり前」という視点で生きていく。変化の波に飲み込まれずに、自分なりにうまく乗っていく方法を見つけていくということでもある。

何かに反発したり、不安だからと、とりあえず批判したり攻撃したりするのではなく、淡々と自分が「こう」と思う方を選択していけばいいと思う。進化の視点から言えば、多様性はやっぱり必須条件で、同調圧力みたいなものが違和感だったら、”人類進化のため”と思ってしれっと無視するのもいいと思う。反抗するまでもなく。



2022年9月18日(日)

数ヶ月前に、LaMDAというグーグルのチャットAIが、意識を持った?というようなことが話題になりました。関連する記事をいくつか読みましたが、今のところは、その発言をしたグーグル社員の思想の反映であるとしか言いようがないのかなと思います。“何をもってして意識を持ったとするのか?”というのは、いうまでもなく判断が難しいし、私たち人間にしたって、生きている間ずっと意識や心を持ち続けているかといったらそれは怪しいかもしれません。

6年ほど前に開発されたヒューマノイドのSophiaを見ていても思うのですが、外側の何かに反応したり、前例や過去のデータを元に行動するっていうことは、人間よりもAIの方がよほど上手。それを人間がやってはいけないというわけではないけれど、そろそろ本当にそのようなことを卒業してもいいのかもしれないなと思います。録音・再生を繰り返すような生き方とか、誰かが言ったことや作り上げた虚構に、ただ反応するだけの生活とか…。



2022年9月15日(木)

私はやっぱり、学ぶことが好きなのだなと思います。知らなかったことを知ると、心底「へ〜そうなんだ!」と嬉しくなるし、物事の新しい視点に触れると、すっとした気持ちになって整っていく感じがします。それがとても気持ちいい。

そういう気持ちに、素直に従っていこうと改めて思いました。知りたいという欲求を、ただ純粋に満たしてあげて、自分という存在を通してなんらかの形にしていく。自分が楽しんで学んでいれば、少なくとも、その楽しい感じとか、意識が開ける 感じとか、そういうものが伝わっていくと思うから。

大学受験は二度も失敗していて(笑)、あの頃は、何か既存のやり方に反抗的だったというか、世の中のことがよくわかっていなくて、独自のやり方に固執してしまっていました。わりと近いところに大学の教授とか東大卒とかそういう人たちがいたのだけれど、いまいちピンときていなかったのですね、当時は。偏見の方が強かったというか。

今でも学問的なことを学んでいると、何かこういろんな不純な(?)ものに出会ってしまうこともあるし、そう純粋に楽しいだけじゃないけれど、なるべくエッセンスを抽出して、「面白い」を共有していくということをしていきたいなと思うのです。



2022年9月14日(水)

外側のいろんな条件と、自分が幸せかどうかっていうのは、別々に存在しているもの。“幸せになるために”といって何かを手に入れたり身につけたりしようとする人は、まだまだ多いのかもしれないけれど、私たちって、そもそもが幸せな存在であるってことを思い出さなければ、いつまで経っても、満たされることはないのですね。

何があってもなくても、幸福感を感じることはできて、それを感じている自分と現象を、ほんのちょっと切り離して観察することができると、次の行動も自ずと自分にとっての望ましい現実を創造する方向へ進んでいく。

どうしたって幸せなんて感じられない、という時は、多分それを望んでいる。ちょっぴり不幸が好きっていう人もいる。そうでなければ、外側の条件がどんなであろうと、問題と思えることを抱えていようと、いますぐに幸せでいることができる。

頭でそういうふうに設定するっていうよりも、肉体からエラーを除いていくことの方が先。食べ物と運動で案外簡単に調整できることでもあって、それができない時というのは、そういう周波数の思考パターンに陥っているだけ。

ありがたいことに、それを調整する方法というのもあって、私がずっとやってきたヒーリングもそのひとつ。健康でいるのも病気を作り出すのも、元々はそれに見合った思考のパターンが存在している。そういうことをなんとなく総合的に理解しつつ、あまり考えないでとにかく体を動かすことですね。具体的な目的意識を持つよりも、本来の状態に戻ることだけを意識して、淡々と。



2022年9月13日(火)

誰のせいにもしない、何も否定しない、攻撃しないということは、やっぱり基本姿勢として大事。

わけもなくしんどかったり、心のキツさを感じた時に、その原因探しをはじめてしまえば、自ずと仮想の敵が出現する。それと戦うことで、一時的に解決したとしても、根本のところはやっぱり変わらないのです。

苦しさキツさの原因は、エネルギーの滞り。まずそれを理解することが必要。私たちは、もう単純に運動不足。思っている以上に。だからとにかく、運動することが最高の解決策だったりもして、とにかく歩いてみるっていうのが一番手っ取り早い方法。

あれこれ考える前に動く、ということ。「どうしたらいいかわからない」という時こそ、ただ歩き出してみる。自ずと次の動きが連なっていくから。



2022年9月12日(月)

やっと、ひと段落。先へ進めないのは、何か心理的なブロックがあるからだと思っていたけれど、なんのことはない、自分のことをわかっていなかったというか、立ち位置が見えていなかったというか、わりと単純なことで。無意識的にとってしまう態度の中にエネルギー漏れの原因があって、それが私という存在の中でウィークポイントとなっていたことに気づく。

だけどそれも、自分自身の性質というよりは、子供の頃から、そういう大人たちの中で育ったというだけのことでもあって、自分の生まれ育った環境がちょっと特殊であったということも、もう少し考慮する必要があるなと。

全てを一旦、諦める、明らめる、というスタンスに立ってみて、これまでずっと当たり前のように、既存のシステムに逆らって生きるというか、「このままではいけない」「変えなければいけない」という思いがどこかにあったけれど、それはもうやめよう、と決めた。

既存のおかしな習慣とか常識にフォーカスするまでもなく、それを変えようとするまでもなく、自分が美しいと感じる世界で生きていこうと。それは、「物事の良い面を見る」ということではなくて、二元論的に物事を見ることからの卒業。とてもシンプルに、望む現実を生きていく。

学校というものを卒業してから気づけば20年。ここからまた新たな20年が始まっていく。そんなフレッシュな気持ち。今目の前にあるもの、うまれつつあるものを讃えながら、素直に喜んで、嬉しい毎日を生きていこう。