2021/12

仏教②日本仏教1

<目次>

■仏教公伝
■飛鳥時代
■奈良時代
■平安時代
■鎌倉時代


※日本仏教の流れ




■仏教公伝

日本への仏教公伝は、552年もしくは538年とされています。文献によりずれがあり、その他諸説あるようですが、いずれにせよ時代区分で言えば古墳時代、欽明天皇の時に、百済(朝鮮半島南西部)から伝えられました。

日本には元々土着の神祇信仰があり、伝来当初は、仏教崇拝を受け入れる「崇仏派」と、反対する「廃仏派」による争いがあったとされています。蘇我氏と物部氏によるこの争いは、結局崇仏派の蘇我氏が、世代をまたいで勝利し、仏教受け入れが決定的となります。

この流れの中で、日本初の出家者も出ることになりますが、それが渡来人司馬達等の娘、善信尼と、禅蔵尼、恵善尼の女性3人です。廃仏の対象になりながらも、仏教を学びに百済へ渡るなど、日本仏教史の黎明期を支えました。蘇我氏が戦いに勝利したことで推古天皇が誕生し、その摂政である厩戸皇子(聖徳太子)が、いよいよ本格的に日本仏教の礎を築いていくことになります。


■飛鳥時代

聖徳太子は存在していなかったとする説が最近では有力のようですが、それはさておき…、まず太子は朝鮮半島からきた学僧から、仏教の学問を学びます。ここがポイントですが、この時点で仏教は宗教というより学問であって、日本にとって仏教は、実践するよりも学問的に学ぶものであり、東アジアを経由する中で確立されていった様々な技術を、国造りのために利用することが第一の目的であったということです。

また、仏教を取り入れるといっても、純粋な出家ということには、そもそも重きを置いていなかったようです。聖徳太子が注釈を書いたとされる(つまり日本が国として、最初に参考にしたであろう)経典「維摩経」「勝鬘経」も、出家よりも在家を称えるような内容であり、現実的に国づくりに活かしていくことが前提で選んでいるかのようです。

聖徳太子の発願により、多くの寺院が建てられ(四天王寺、法隆寺など)、仏教は急速に日本に根付いていくことになります。そしてクーデターによって政権交代が起こると(大化の改新)、仏教は天皇の管理下に置かれ、僧といえば鎮護国家と天皇の安泰を祈る(祈祷をする)官僧が主流になっていきます。官僧として出家するには天皇の許可が必要で、戒律を受け試験に通り官僧となれば、衣食住の保証、刑法上の優遇、軍役を免れるなどの特権がありました。出家することを「得度」といい、許可なしに勝手に得度する「私度」は禁止されていました。

このような中、遣唐使として唐に渡った道昭(629-700)は、三蔵法師で知られる玄奘に師事し、法相宗の教理を持ち帰りました。民衆への勝手な教化は禁止されていましたが、道昭は各地で井戸を掘ったり民衆を教化したりということを積極的に行なっていたのだそうです。日本ではじめて火葬によって弔われたのが、この道昭とのこと。


■奈良時代

仏教は全国に順調に浸透し始め、聖武天皇の時には、鎮護国家祈願のための寺院が全国展開されます。それが国分寺、国分尼寺です。中央で行っていた鎮護国家、天皇安泰の祈祷などを各国でも行うこととし、また、各地の守護や仏教文化の基点としての寺院が建立されることになりました。そしてその総括として、中央に建てられたのが、奈良の東大寺ということです。

東大寺といえば、大仏ですが、この大仏を建立するためには莫大な資金が必要となります。そこで頼りにされたのが、民間で自由に活動し弾圧もされていた行基(668−749)です。道昭の弟子でもあった行基は、禁止されている私度僧集団を作り、民間でも大いに事業を展開していたためその集金力を買われ、最高位の官僧となり、大仏建立に協力することになります。

それから、奈良時代に盛んだったのが、南都六宗と言われる六つの宗派。三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の六つで、これは互いに教理を学び合う学問集団であってそれぞれの寺院は学校のようなもの。医学、建築、語学なども合わせて学ばれていました。このうち成実、倶舎はそれぞれ三論、法相に付属する寓宗となります。

律宗を日本にもたらしたのは、753年に来日した唐の鑑真で、この時から正式な授戒制度が始まりました。戒律をよく知らない私度僧、破壊僧が増えたために、日本からの強い要請で来日したそうですが、要は、中国が行っているような授戒でないと、大陸では認めてもらえなかったからという理由もあるようです。いずれにせよ、鑑真が何度も渡航に失敗してまでも伝えなくてはいけなかったのは、仏教そのもののためではなく、国の秩序を守るための戒律であることは明らかであるように思われます。


■平安時代

平安時代といえば、最澄と空海の二人の僧の名前がまず上げられます。後世、特に空海に魅力を感じる人が多いのは、きっと彼がとても人間的であり、自らの欲求に忠実に生きたからということが一つの理由ではないかと思ったりもします。仏教はここから、より日本的なものになり、独特の色合いを持つようにもなっていきました。

最澄と空海は共に、遣唐使として別々の船で唐に入り、それぞれの成果を持ち帰ります。新たな流れとして「密教」というものが登場しますが、ここから始まる様々な論争の流れをざっくりと見る限り、現代のビジネスやアートの世界で行われていることと変わらないのだなという印象です。つまり、日本の仏教というのは表現の場であって、学問によって思考を刺激しつつ、形而上のアイデアをアートで体現するといったような側面が強くで始めたのが、この時期だったのではないかと思います。(密教については、この後改めてまとめてみたいと思います。)

そのことで形成された文化の恩恵も、もちろんあるのでしょうが、いつも思うのは、そのような運動とは離れた場所で、淡々と生きていた心優しき存在たちが多くいたのだろうなということ。有形無形のそのような存在たちが、図らずともこの日本を維持しているのではないかと、私はやはり感じずにはいられません…。

…何はともあれ、最澄(766-822)は懸命に奮闘し、唐から持ち帰った天台宗を日本で開き、これまで東大寺(奈良)、観世音寺(福岡)、下野薬師寺(栃木)でしか認められていなかった授戒を、比叡山延暦寺でも可能としました(実際に認められたのは最澄の死後)。そして空海(774-835)は、最澄よりも本格的に密教を修得し、日本で真言宗を開きます。道場となったのが元々官寺として建てられていた、京都の東寺。そのことから真言密教は、天台宗の密教「台密」に対して「東密」とも言われます。

日本での密教は、古くからある山岳信仰(修験道)などと結びついて、独自に発展します。日本独特の神仏習合(後述)という信仰体系も手伝って、ちょっと何がなんだかわからなくなり、民衆にとっては、とにかく”ありがたいもの”として拝む対象となっていきます。

更に、「末法思想」によると、釈尊入滅後時を経るほど、その正しい教えを理解する人がいなくなり、世の中が乱れるとされており、その最後の末法の世が、正にこの時代であるという認識が広がっていました。律令制が機能しなくなり、武士同士の争いや、疫病の流行など世の中は乱れがちであったために、とにかく念仏を唱えて、せめてあの世で幸せになろうというような、浄土教が広まります。「南無阿弥陀仏」と唱え、“阿弥陀さまに極楽浄土に導いてもらおう”というものです。平安中期に民間で教化していた空也、平安末期に融通念仏宗を開いた良忍などがいます。


■鎌倉時代

平安時代までの官僧を中心とした仏教が、鎌倉時代で大きく変わっていくことになります。世の中が荒廃していく中で、人々は仏教に、より個人的な救済を求めるようになっていきます。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった僧によって、更に仏教は日本独特のものになっていきました。その特徴の一つとして、多くの僧が、一旦官僧として出家した後に、そこから離脱し「遁世僧(とんせいそう)」となって活動している点です。以下、順に見ていきたいと思います。

まずは法然(1133-1212)から。ひたすら念仏だけを唱える「専修念仏」という構想のもと、浄土宗を開いたのがこの法然。例えば、現代の書店に平積みされる書籍や広告なんかで、「〇〇するだけ」「たったこれだけで」などというタイトルがよく見られるように、難しいこと抜きにして手っ取り早く解決したいと考えることは、多かれ少なかれ、誰しもあるのかもしれません。「念仏唱えるだけでOK!」と聞くと、法然の専修念仏も、そういった類の安易なものなのかと思ってしまいがちですが、そういうわけではありません。

「智慧第一の法然坊」とも言われた法然は、経典を読み込み深く理解した上で、様々な学派からも学びを得ていたそうです。その頃の仏教界は既に官僧たちの権力争いの場であって、特に法然が学んだ比叡山では、僧兵たちが絶えず争いごとを起こしていたので、おちおち修行していられないということで、法然は山を降ります(遁世)。

そして、「観無量寿経」の注釈書である、中国浄土教の善導による「観経疏」に出会い、念仏こそが極楽浄土へ至る唯一の道であることを確信し、天皇の許可なく浄土宗を開きます。専修念仏の道が、法然にとってはやっと出会えた境地であっても、それを一般に広めたら誤解を招くことは明らかなように思えるのですが…。とにかく法然は、絶望的な状況になんとか光を灯そうとしたのですね。何はともあれ、弾圧を受けながらも、浄土宗は広く受け入れられていきます。

次に親鸞(1173-1263)です。親鸞も元は比叡山の官僧でしたが、遁世し法然の門下となります。ちょうどその時に法然の専修念仏は弾圧により停止され(承元の法難)、親鸞も越後に配流されます。そしてそこで恵信尼と結婚し(時期は諸説あり)子共も生まれ、常陸国に移住し独自の教えを広めていきます。その後は京都へ戻り九十歳の長寿を全うしました。

親鸞といえば「悪人正機説」で有名ですが、著作の「歎異抄」で「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と述べ、悪人こそが救われるのだと説きました。この辺りは、実は法然の説であったとか、弟子の思想なのではないかとか色々言われているようですが、要するに、ここまでくるともう、わざわざ仏教の名を借りる必要はない世界ですよね。これまでこっそり破られていた戒も堂々と無視されるようになり、日本仏教の形骸化がはじまっていきます。

さて、浄土教系の次は禅系を見ていきます。禅宗といば、鎌倉時代に臨済宗を開いた栄西、曹洞宗を開いた道元がよく知られているかと思いますが、それ以前にも禅は何度も日本に伝えられており、法相宗を伝えた道昭も、玄奘について禅を学び日本に持ち帰ったのだそうです。平安時代の最澄や空海、その他多くの僧が禅を学び伝えましたが、禅宗として一宗を築くまでには至らなかったということです。

ということで、栄西(1141-1215)が最初に禅宗(臨済宗の一派)を立ち上げましたが、栄西にしても禅宗一筋であったわけではなく、元々は天台教学、密教を学び比叡山に上り、天台宗の僧として中国に渡りました。禅を本格的に学んだのは二度目に入宋した時で、帰朝してからまず博多で活動し、その後鎌倉幕府に招かれ鎌倉へ入り、幕府の援助を受け京都に禅宗のための建仁寺を建てます。とはいえ朝廷と密接な関係にある比叡山の力は強く、密教の僧も兼ねて活動せざるを得ませんでした。

栄西のもう一つの功績は、茶を日本にもたらしたこと。「喫茶養生記」を書いて、茶を心身を健やかにするための薬とし、喫茶の習慣を広めました。また、栄西の場合、比叡山の反対により遁世僧となってはいるものの、幕府の後援などもあり権僧正という官僧の位につくという例外的なパターンでした。

次に、曹洞宗の祖とされている道元(1200-1253)ですが、道元は有力貴族の出身で、十四歳の時に授戒し、比叡山延暦寺の官僧となります。延暦寺での従来の考え方(天台本覚思想)に対する疑問から山を降り、栄西の弟子である明全から禅を学びます。その後明全と共に入宋し、いくつもの寺院を訪れましたがなかなか師に巡り会えません。ついに天童山で如浄に出会い、只管打坐の禅を受け継ぎ帰朝し、建仁寺に入ります。只管打坐とは、ただひたすらに座るということ。座禅が最も優れた修行であるという立場から、「普勧坐禅儀」を記します。

それから、「修証一如」といって“修行と悟りは同一、悟るために修行をするのではなく、修行そのものが悟りである”という思想を打ち出します。道元は比叡山にいる時から、「天台本覚思想」では、”人は皆本来仏性を備えている”というが、それではなぜわざわざ修行をするのか?という疑問を抱いていました。

磨かなければ曇る鏡のように、掃除をしなければ塵が積もるように、人の煩悩も放っておけば日々たまってゆく。あおがなければ風が起こらないように、そこにあっても働きかけなければ姿を現わさないものもある。仏性を備える人にとって、日々当たり前のことを当たり前にする、そのことが修行であって、仏性を曇らせないため、表出させるための方法なのだということ。その当たり前のことが、場合によってはとても難しいことで、だからこそ道元は、厳格な出家主義に傾倒していったのかもしれません。

従来の仏道修行を否定する道元のやり方は、当然比叡山から圧がかかり、京都の建仁寺にはいられなくなります。在家信者である、六波羅探題の波多野義重の領地(越前)に大仏寺を建立、のちに永平寺と改称し、そこで厳しい修行生活を送ります。権力と結びつくことを嫌い、他宗の生ぬるいあり方を容赦なく批判し、潔癖なまでに自身の得た法を貫きます。そんな中、病を得て京都で療養しますが、そのまま永平寺に戻ることなく53年の生涯を終えます。

最後に、鎌倉後期の僧、日蓮(1222-1282)について。千葉県の漁村に漁師の子として誕生し、12歳で地元の清澄寺に入り16歳で得度。詳しいことはわかっていないようですが、比叡山に上り、鎌倉、京都なども遍歴したとされています。日蓮の思想は「法華経」が絶対であるというもので、自身のことを、釈迦没後の「法華経」流布を担う使者であり「法華経」を説いて衆生を救う菩薩の再誕であると位置づけます。

特に念仏系を激しく批判し、後に禅宗などもその矛先となります。当時の天変地異や疫病は、そういった“邪宗”に原因があるとして、幕府に「立正安国論」を提出し、念仏宗を禁じ法華経を中心とするよう進言します。これは政治批判ともとられ、伊豆へ送られます。鎌倉へ戻ってからも、諸宗を激しく批判し、佐渡へ配流。それでも自身の生涯と法華経の文言を照らし合わせ、自らの正しさを確信します。念仏はダメだけど、題目(南無妙法蓮華経)はOK!その理由は、とにかく“法華経が正しいから!”なのですね…。

※長くなってしまったので、一旦ここで区切って、【室町〜江戸〜神仏分離・廃仏毀釈〜現代】は次回まとめたいと思います。