2022/01

仏教②日本仏教2

の続きです。

<目次>

■室町〜安土桃山時代
■江戸時代
■神仏分離〜廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)


■室町〜安土桃山時代

室町時代からは、鎌倉時代に築かれた新しい仏教が根付いていくことにもなりますが、混乱した時代の中で、権力やその他の文化と複雑に結びつき、更に多様性を帯びていきます。ここではその中から、五山仏教周辺と、浄土真宗の繁栄、織豊時代(安土桃山時代)における仏教に絞って、まとめてみたいと思います。

・五山仏教周辺

五山仏教とは、当時幕府の庇護下にあった臨済宗の寺院を、名目上格付け保護し、管理下に置くという統制制度。五山を選定する試みは、鎌倉時代後半から始まって、室町時代の足利義満の時に、「五山・十刹」制度が固まり、南禅寺を別格、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を京都 五山としました。

そもそもなぜ臨済宗なのかということに触れると、夢窓疎石(1275-1351)という僧の活躍をあげることができます。元々禅宗の自己を厳しく律するというような性格は、武士の間で人気があったようですが、夢窓疎石は、鎌倉時代から建武の新政を経て南北朝時代という複雑な時期に、後醍醐天皇、足利尊氏らから帰依を受けて重要な役割を担いました。

疎石は、鎌倉幕府滅亡時や南北朝の動乱で亡くなった人々の怨霊鎮魂のために、足利尊氏らに提言し、全国に「安国寺・舎利塔」を設定します。諸国に一寺・一塔が指定され、鎮魂と同時に、全国に北朝の勢力を行き渡らせるという意味もありました。また、五山のひとつ天竜寺は、後醍醐天皇の鎮魂のために、疎石の進言によって建てられたものです。伝来当初は、鎮護国家、天皇安泰のためだった仏教が、平安、鎌倉時代を経て、人の”死後”をも扱うものへと変貌を遂げていったのですね。

夢窓疎石は元々、天台宗の僧でしたが、師の死に際があまりよろしくなかったために、天台の教理に疑問をもち禅宗に転じたのだそうです。五山文化の基礎を築いたとされる一三一寧という中国からの僧らに師事し、臨済宗の僧として活躍していきます。ということで、臨済宗は幕府のもとで繁栄し、かつて朝廷のもとで保護された官僧とは違った形で官僧化していきます。そんな中で生まれた「五山・十刹」の制度ですが、例えば寺の住職は幕府が任命することとし、その任命料が幕府の財源となりました。

五山仏教の中心は、漢詩や漢文などのいわゆる五山文学で、禅宗の学問だけでなく、さまざまな文学や美術などが中国から持ち込まれ、華やかな五山文化が開花しました。文化としては大いに発展しましたが、肝心の禅宗修行は疎かになり、本来のあり方からは程遠いものとなります。一方そんな風潮を嫌い、華美な世界や権力とは、離れたところで修養する僧も多くいました。大徳寺の一休宗純(一休さん)もその1人です。有名な一休さん像は、もちろん誇張されていて真偽の程はわかりませんが、湖上を渡るカラスを見て悟ったそうで、虚偽を嫌い、自由奔放、風流に生きた僧だったようです。

・浄土真宗の繁栄

鎌倉時代、親鸞によって開かれた浄土真宗は、蓮如(1415-1499)によって拡大します。浄土真宗の教えをわかりやすく広めるために「御文」といわれるものを書いて手工業者や農民などに布教します。その中心は「南無阿弥陀仏」をひたすらに唱えることであり、信者はひたむきに(一向に)念仏を唱えることから一向宗(衆)とも呼ばれました。室町末期の下克上の世において、数々の一揆が起こりましたが、浄土真宗のもとで横の繋がりを強くし力をつけた一向宗の人々も、各地でしきりに蜂起しました。これが一向一揆で、代表的なものは1488年に起こった「加賀一向一揆」です。この一揆は実質的に加賀一国を支配するまでになり、織田信長に制圧されるまで、その勢力は約100年も続きます。

・織豊時代(安土桃山時代)における仏教

ということで、戦国時代の混乱の中で起こったいくつもの一向一揆は、この頃から頭角を現していた織田信長と何度も衝突します。その他にも信長と仏教が絡んだ事件として比叡山の焼き討ちがあげられますが、これは仏教に対する弾圧ではなく、当時の腐敗しきった宗教界を一掃するためであったともされています。日本において仏教というものは、初めから権力と不可分ではあったものの、やはり宗教の本分というものはあって、この時代の仏教はあまりにもその本分から外れたものであったことは確かなのでしょう。

そしてこの時代、新たにキリスト教という仏教以外の思想に触れた日本人は、その教えの違いに戸惑い、議論が巻き起こることにもなります。キリスト教も、伝来当初は「天竺宗」などと呼ばれ、“インドの方からきた新しい仏教の宗派”だと思われていたそうです。豊臣秀吉はキリスト教に対して、最終的に「バテレン追放令」を出して宣教師を追放することになりましたが、仏教に対してはどのように対応していたのでしょうか。

戦乱の世において、宗教も権力もごちゃ混ぜ故に、寺院や霊山、聖域であっても、戦闘の場となりました。秀吉も寺院の焼き討ちや高野山への威嚇など、僧兵とも争いましたが、その後自身の発願により、戦乱によって損傷した東大寺の大仏の代わりとして、京都に方公寺を建てます。ここに造られた大仏は東大寺の大仏よりも大きなもので、秀吉が刀狩によって農民から没収した、刀剣類がその材料となりました。

方広寺では毎月、各宗の僧侶を招いて「千僧供養」を行いました。秀吉の祖父母の供養ということでしたが、このように多くの僧を定期的に招集することで、仏教界を統制管理する目的もあったようです。このようにして、既存の仏教勢力を一掃した上で新たに、仏教を国家に組み込むための試みが始まっていきます。


■江戸時代

江戸時代の仏教といえば、「檀家制度」がその大きな特徴としてあげられます。全国民が仏教徒とされ、戸籍は寺によって管理されます。そして、いわゆる葬式仏教が本格化していくことになりますが、その成立の流れを見ていきます。

徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利するとまず、1601年から15年かけて各宗派の本山に対し、「寺院諸法度」を発布します。前時代までに拡大していた寺院勢力を自らの支配下に置くために、各寺院に細かく指示を出し、僧兵の武装を解いて仏道修学に励むようにと通達しました。その後も、本山に末寺を把握させる「本末制度」を定めたりして、幕府側からも把握しやすいように寺院の組織化を進めていきます。

あらゆる面において統制が厳しくなる中、弾圧されたキリシタンによる反乱「島原の乱」が起こります。危機感を感じた幕府は、キリスト教に対して禁制を強めます。キリスト教徒でないことを証明するためには寺院に寺請けしてもらう(檀家になる)必要があり、民衆は全て「宗門改帳」という戸籍によって管理されました。結婚や移住なども、この寺院による戸籍証明が必要でした。葬儀ももちろん所属する寺院(檀那寺)によって行われ、ここから葬式仏教というものが本格化していきます。

キリスト教及び、幕府に従わない宗教は弾圧されましたが、それ以外の神道、陰陽道、修験道などは容認されていました。特に江戸時代に人気をはくしたのは修験道で、農民たちは農閑期に山伏修行をしたり、四国八十八か所などの霊場巡りも盛んになりました。仏教を利用して民衆を徹底的に管理はするけれども、各々が何を信仰するかということには、寛容でもあったようです。


■神仏分離〜廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

もとより日本の仏教は、「神仏習合」という独自の体系のもと、1000年以上もの間、古来の神々となんとかミックスさせて存在し続けてきました。その曖昧な状態にそろそろ決着をつけようと、明治政府が発布したのが「神仏分離(判然)令」で、それと同時に各地で起こったとされているのが「廃仏毀釈」という現象です。そのあたりを、少しだけ詳しく見てみようと思います。

「神仏習合」とは、簡単に言ってしまえば神と仏を一緒に信仰すること。伝来当初は、仏教というものにそれ程特別な意味があったわけではなく、仏というものも神々の一種として捉えられていたようなところがあります。仏教が国家に組み込まれて次第にその存在が大きくなってくると、古来の神々というのは、仏が衆生救済のために、化身として現れたものであるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という考え方が出てきます。つまり仏>神という図式が出来上がっていきます。仏が「かりそめに(=権)」姿を現したのが「権現」で、神と仏を初めから同一とした、神仏習合の象徴的な形でもあります。

神も仏も一緒に祀ろうということになった理由の一つが、寺院を建てる場所の問題でした。人が集まりやすくてある程度広さもあり、“気のいい”場所は、既に神社が建っていて信仰の場になっている為、寺院を新たに建立するならそこに併設するのが効率が良かったのです。そこで神社の敷地に建てられたのが「神宮寺」というわけです。そこまでする程、当時の日本にとって、仏教はメリットがあったのですね。

現在日本の代表的な神社、例えば伊勢神宮などにも神宮寺がありました。最近の神社ブームで広く知られるようになった「おかげ参り」は江戸時代に大流行したものですが、その頃にはまだ神宮寺が併設されていて、周囲の多数の寺院と共存していたわけですから、伊勢神宮も今とは全く違った空気感だったのでしょう。それから、宮中でも当然のように仏事が行われていました。今でこそ宮中祭祀は神道式ですが、ほんの150年程前まで、皇族が仏教式にお葬式をするのは当たり前で、上皇となると同時に出家するというのはよくあることだったのです。宮中には「御黒戸」と呼ばれる仏間のような場所があり、仏式で先祖が祀られていました。

江戸時代までの信仰体系は、単純に神と仏を合わせたものというよりも、古来の山岳信仰や陰陽道なども混ざり合い、先にあげた権現のように、もとより神仏不可分のものがいくつも登場したり、とにかく複雑なものになっていました。そんな中、江戸時代中頃になると「国学」という学問が現れ、”日本古来の精神文化を取り戻そう”というようなことが言われるようになり、古事記などの研究から神道が見直され、日本人が培ってきた文学などの研究から、そのみずみずしい感性や人間性を否定するような”仏教”に対する批判が強まっていきます。仏教に対する理解も深まるにつれ、全ての欲を絶って涅槃を目指すような教えを、建前上とはいえ全国民に信仰させることに、そもそもの無理が出てきたのではないでしょうか。

そのような仏教批判や復古神道のような思想が相まって、尊王攘夷を掲げた明治政府は、1868年に「神仏分離(判然)令」を出し、まずは神仏を分けるところから始めます。これは仏教を国から排除するためではなく、神道を国教とする、天皇中心の祭政一致を目指した明治政府が、信仰体系をはっきりとさせるためにとった政策であったのです。出されたのは”判然”令ですから、祀ってある神仏の”由緒”を明らかにせよ、という通達でもありました。ですが、これまで仏(寺)を主とされて、諸々のが鬱憤が溜まっていた神社側が、ここぞとばかりに仏教色を排除しようとしたことが発端で「廃仏毀釈」が起こります。廃仏毀釈とは、仏を廃し、釈尊を毀(そし)るという意味。仏像や仏閣を、激しく破壊するという行為が各地で起こったとされています。

実際に、どれほどの寺院が攻撃の対象になったのかは正確にはわからないようですが、神道国教化の流れの中で、結果的に多くの寺院は廃業に追い込まれ、僧侶たちは還俗することになります。明治2年に天皇の伊勢神宮参拝が始まると、伊勢周辺での廃仏は著しく行われ、おかげ参りで活躍した「御師」(寺社の参拝者を世話する人)たちも、その多くが職を失うことになったのだそうです。“国家神道”による統治が進む中、地方の小村などでも、これまで自分たちが信仰してきた土着の信仰が否定されたことによる混乱や恐れから、多くの流言が生まれることにもなります。

いずれにせよ、この幕末から明治にかけての時期に、日本人の精神に、全体として大きな動揺と変化が起こったことは間違いないようです。とはいえ、もともと神々と直接繋がって生きていたともされる日本人。その特定の教義などないおおらかな信仰心は、また新たな形で仏教とも結びついて、失われることなく日本人の心に受け継がれているのかもしれません。

このように仏教色が廃されていく中で、その憂き目を逃れ、僧侶や民衆たちの手によって保護されたものが、今も全国に残る仏像・仏閣だということです。そして第二次大戦後に国家神道が廃止され、宗教法人法が定められたことによって数多の新興宗教が乱立する中で、日本の仏教は独自に存続していくことになります。






※現代の仏教については、また機会があればまとめてみたいと思います。日本仏教は一旦ここで終了します。